何かを食べて感動したことってありませんか?
先日、とは言ってももう半年も前なんですが、「確かにここはここでうまいけど感動するほどの美味さじゃないんだよ、わかる?」というような話をしているとこに遭遇しました。
自分は参加することなく「うんうんわかるわー」(例えばアレとか、アレうまかったなー)と頭に浮かべながらそれを聞いていたんですが、話題に加わっている人たちは皆、食に興味を持たずに生きて来た人たちなのか、「何かを食べて感動することってあるじゃん?ない?」という問いに共感、同意はなく、話題の根底が存在してない感じ。
いつだったか生まれた時から目の見えない人に物の色を伝えることの難しさに気づいた時から、感じられない人=その感覚を持ち合わせていない人に、その事の説明をすること=共感を得るって困難どころか出来ないんじゃないかと思うようになっていたんですが、「これ食全般でも言えることだわなー」と久々思い出しました。
そういう感覚、感情でもそうですが、ソレが芽生えない人間であるのならば、それを感じ取る能力が備わらない限り、感じ取れないし、理解出来ないもんなんだろうな、と
諦観じゃなく達観と思ってますが、同じソレを経験しても同じ感動が得られているとは限らない
味付けでも好みの差がありますけど、食材の好き嫌いなんかまさにコレ。
食にかけるお金の多寡、人生に置ける食の重要度に差はあると思ってましたけど、確かにある程度同じような味覚を持って同じようなモノを食べても同じように心が動かされてない人もそらいるわな、どころか、えっ?そういう人のが多い?
食べることが好きで食べログみたいなサイトを見てれば同じような価値観の人で溢れていて、一見そうとは見えてもそれが=普通、多数派と思ってたわけじゃないんですが、むしろ少数派?って思わされるくらいその時の対話は成り立ってなかった(笑
分かる人と分からない人の間に優劣は存在しませんけど、共有・共感出来ないのは寂しい。
こう思いつつ話しを聞きながら、自分が感動した食事を思い出していました。
- 四半世紀前、初めて食べた吉野家の牛丼@日暮里駅前
- カルビ、ロース以外知らなかった頃初めて食べた焼き肉のハラミ@浦和伽耶の家
- 炭や@大宮のツラ、サガリ、その後小肉、ナンコツ
- 台北で友人に連れられ入ったレストランでのマヨネーズのフワフワしたので包まれた海老(料理名わからず)
- シャコのスパイシー炒め@香港
- マカオのベラヴィスタで食べたフランスパン、堅かったけどウマくて驚いた
- バンコクはカオサンロードで食べたおかゆ(ジョーク)
- ベトナムの寝台列車に乗ってる時、朝食か昼食で出された巨大な肉まん
- 屋台の新聞紙に包まれたほんのり緑色の棒アイス@インドのアムリトサル
- コームーヤーン(豚ののど肉の炙り焼き)@チェンマイ
- うなぎ@三重の初音
- かに玉チャーハン@かにチャーハンの店(注 初期)
- みかわで初めて食べた高い天婦羅
- もつ鍋(の特にちゃんぽん麺)@鳥小屋新橋店がんこ
- 完熟マンゴーfrom沖縄
- ねぎしの牛タン
- 海苔巻き@六禄
「世の中にこんなウマイもんあるんだーーー」っていうベタな感動から、「・・・ナニコレ・・・っっっすっげーうまい・・・」と固まってしまう感じのもの、それまで食べてきた同じものの中で一番と思ったもの、今まで「それ」と思って食べてきたものは別の何かと概念を書き換えられたものや「これが本物」と自分の好みを気づかされたものなどなど、それぞれ「どこで」「誰と」食べたのかはっきりと覚えてます(連れられてったおかげで店名がわからないトコもありますが、苦笑)。
自分にとっては「食べることが(も)人生」でこういう色々な感動を与えてくれる楽しみの一つ。大袈裟に書けば生きてる意味で旅先で出会いたいものの一つなんですよねー。